「マイネル軍団」の総帥として知られる岡田繁幸さんが自宅のある北海道で19日に亡くなったことが分かった。半世紀近く競走馬の生産、育成に携わり、クラブ法人の代表として数多くの名馬を輩出した競馬界の偉人が、くしくも71歳の誕生日に天国に旅立った。
岡田繁幸さんというホースマンほど、独特の言葉と視点で馬を表現してきた人物はいない。一目見ただけでは分からない馬の筋肉の収縮や硬軟などを解説する相馬眼の達人として名を知られ、ゼロから“マイネル軍団”を築き上げた功績は大きい。
その達人でもダービー制覇は果たせなかった。86年は社台Fがダイナガリバーで初めて頂点に立った歴史的一戦で、36歳当時の岡田さんが所有したグランパズドリームは2着。「あの時の(吉田)善哉さんが人目もはばからず泣いていた光景が忘れられなかった。まだ自分なんて…。あの時にダービーの重みを知った」。社台グループの礎を築いたボスの涙が、自身の競馬観に影響を与えたことは間違いない。
今でも忘れられないのは、ホッカイドウ競馬所属として04年中央クラシックに挑んだコスモバルクの取材時。当時の地方競馬は財政難で廃止が相次いだ時代だった。岡田さんは04年2月の北海道・ビッグレッドファーム明和で、初対面の私にまくし立てるようにバルクへ託した野望を吐露した。
「地方競馬の騎手が午前3時から調教に乗っても給料が少ないのに、中央の騎手は数千万円も稼いでいる。何で? 何でなの? 誰かが変えないと。今の制度に風穴を開けなくては…」。情熱を帯びた即席インタは2時間にも及び、疲弊した馬産地に対する危機感を若輩の記者に訴えてきた。
晩年の岡田さんは病気を患った影響から、瞑想したり、断食をするなど独自の価値観で自身と向き合っていたという。「マイネル」や「ウイン」のクラブを受け継いだ息子らは、異端児とされた父の競馬観と合わずに何度も衝突していたという声を耳にするが、天国へ旅立った“カリスマ”の情熱は、次世代へ継承してほしいと願わずにいられない。(中央競馬担当デスク・牧野 博光)