25日、中央競馬では第38回ジャパンカップ(東京競馬場、芝2400メートル)が開催される。81年から始まった同G1は、日本馬VS外国馬の構図で競馬ファンにおなじみの秋の大一番だ。創設当初は外国馬に歯が立たなかったが、第4回となった84年、日本馬初勝利を飾ったのがカツラギエース。今も語り継がれる逃亡劇の裏側に迫った。
正面スタンド前からのスタート。10番人気のカツラギエースが果敢にハナを切ると、地鳴りのような大歓声が場内を包み込んだ。10頭の外国馬、そして日本が誇る3冠馬の2頭、シンボリルドルフとミスターシービーなどライバル13頭を相手にぐんぐんとリードを広げ、向こう正面では10馬身差。玉砕覚悟の大逃げ―。誰もがそう思った。
柔道の山下泰裕、体操の具志堅幸司らがロサンゼルス五輪で10個の金メダルを獲得し、日本列島が沸いた1984年。第4回ジャパンカップ(JC)が行われた11月25日、東京競馬場も熱気に満ちていた。日本初の国際レースとして81年に始まり、メディアが「競馬開国」と伝えたJC。しかし、米国のメアジードーツが勝った第1回から3年続けて見せつけられたのは世界の圧倒的な強さだった。迎えた当日のパドックでは鉢巻き、作業着姿の男が日の丸を振るなど、五輪さながらのシーンも見られた。
JC創設以前は鎖国状態にあった日本競馬。日本中央競馬会の業務部企画課にいた北原義孝は、ある強い思いに駆られていた。「あの頃、日本の馬は一番強いと思っている人たちばかり。アメリカに馬を送り込む仕事をしていたのですが、いつもボロ負けして帰ってきました。井の中の蛙(かわず)だったのです」。中央競馬史上初の獲得賞金1億円超えを果たし「怪物」の異名を取ったタケシバオーでさえも、68年のワシントンDCインターナショナルで8頭立ての8着、翌69年が7頭立ての7着。これが現実だった。
このままでは世界から取り残される。危機感を植えつけるため、北原はJCを創った。「日本の馬を強くするためには、これしかありません。調教師、騎手、馬主、生産者に勉強をしてもらわないと。一番効果があるのは、外国の強い馬に来てもらい、目の前で日本の馬を負かしてもらうことだと思っていました」
レース名は原案では「東京インターナショナル」になる予定だった。だが、『インターナショナル(国際)と名付けて外国馬が1、2頭しか来なかったら格好悪い』という意見が出て、北原が「ジャパンカップ」と名付けた。世界最高峰と評価されるフランスの凱旋門賞などにならい、距離は2400メートルに決定。ヨーロッパの主要国では10月下旬にはビッグレースが終了するため、日本に来るチャンスが多くなるという狙いで11月末の施行となった。
第1回、第2回は4着までを外国馬が独占。「日本馬が勝っては困ると思っていました。痛い目にあったことで、それから日本の関係者の目の色が変わりました」。北原の思惑通り、第3回でついに、柴田政人騎乗のキョウエイプロミスがレース中に右前脚じん帯を断裂しながらもアイルランドの牝馬スタネーラに頭差まで迫る2着。今度こそ日本馬が勝つんだと、機運は高まっていた。(内尾 篤嗣)=敬称略=
◆北原 義孝(きたはら・よしたか)1935年7月2日、石川県七尾市生まれ。83歳。早稲田大学法学部卒。60年に日本中央競馬会入会。96年に日本中央競馬会副理事長に就任。財団法人競馬国際交流協会2代目理事長(99年就任)も務めた。日本初の競馬国際レースであるジャパンカップを創設し、「ミスター・ジャパンカップ」と呼ばれる。