◆第56回オークス・G1(1995年5月21日、東京競馬場、芝2400メートル、良)優勝 ダンスパートナー(武豊騎手、栗東・白井寿昭厩舎)2着 ユウキビバーチェ(松永幹夫騎手、栗東・新井仁厩舎)3着 ワンダーパヒューム(田原成貴騎手、栗東・領家政蔵厩舎)
日本の競馬史にさん然と輝くサンデーサイレンス産駒の快進撃が始まったのは、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件で日本列島が揺れた1995年だった。武豊のエスコートにより、ダンスパートナーが矢のような伸びで、府中の直線を駆け抜けた。
光があれば、必ず影がある。ヒロインがまぎれもなく勝者なら、対照的な悲劇のヒロインが存在した。ほんの2か月前、岐阜・笠松から全国区に躍り出たライデンリーダーだった。
3月19日、震災の影響で京都競馬場で行われた桜花賞トライアル・報知杯4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビュー)。安藤勝己が騎乗したライデンリーダーは直線一気の末脚を繰り出して快勝。一躍、桜花賞候補に名乗りを上げた。
交流元年だった。この年から、JRAのG1レースが地方馬にも部分的に開放された。指定されたレースで条件を満たす成績を残した地方馬は、出走が認められるようになった。その先陣を切ったのが「笠松の女傑」だった。地方馬が在籍したまま、中央のクラシックに出走する第一号になった。
「そんなに簡単に勝てるのか…」。公営・笠松に安藤勝己あり。知る人ぞ知る天才は、ライデンリーダーを管理する荒川友司調教師と、最初のビッグチャンスを前に胸を躍らせた。桜花賞当日は1番人気。だが、甘くはなかった。終始、馬群に包まれたライデンリーダーは直線半ばで抜け出したが、時すでに遅し。ワンダーパヒュームの田原成貴が鮮やかに勝利を手にした。
ただ、負けただけでは終わらなかった。ライデンリーダーは4着に入り、オークスの優先出走権を手にした。脚を余して、負けて強し―。ファンの支持は揺らぐことはなく、オークスも1番人気に支持された。未知の2400メートルにも積極的な先行策で挑んだ。
結果は13着。馬群に沈んでいくライデンリーダーを尻目に、ダンスパートナーがはずむように馬場の真ん中で末脚を爆発させた。勝ち時計は翌週の日本ダービーを上回っていた。その後、約15年間、日本競馬を席巻することになるサンデーサイレンスの血がなせる業だった。
それでも敗者でありながら、ライデンリーダーは主役だった。活躍が関係者、ファンの目を地方へ向けさせる一助になった。中央の大舞台で刺激を受けた安藤勝己は中央移籍という夢を抱き、8年後の2003年に実現した。岩田康誠、小牧太、内田博幸、戸崎圭太ら、地方のトップジョッキーが、アンカツに続いた。
ライデンリーダーは秋のエリザベス女王杯(当時は3歳牝馬限定)にもチャレンジ。ローズSで3着に入り、優先出走権を手にした。本番は13着だったが、地方在籍というハンデを背負いながら、数少ないチャンスを生かし、牝馬3冠レースを皆勤したのは実力の証明だった。決して悲劇のヒロインではない。強烈な輝きを放った笠松の女傑は、2014年に天国へ旅立っている。
=敬称略=
(編集委員・吉田 哲也)