マンハッタンカフェ、アパパネ、エルコンドルパサーなど数々の名馬でJRA・G1・26勝を挙げ、JRA歴代4位の通算2539勝を誇る蛯名正義騎手(51)=美浦・フリー=が、28日の騎乗を最後に引退し、調教師に転身する。公私で親交があるスポーツ報知評論家の小島太元調教師(73)が、過去の秘話、新たな挑戦への思いなど、本音をたっぷりと聞き出した。蛯名がゴーフォザサミットで出走する同日の中山記念・G2(中山)と、阪急杯・G3(阪神)の出走馬も25日、確定した。(構成・西山 智昭)
小島太氏(以下、太)「俺は48歳で引退したけど、正義は51歳か。実は、俺は早い時期から調教師を勧めていたんだよ」
蛯名(以下、蛯)「確かに言われていましたけど、当時はそんな気持ちはなかったんですよね」
太「正義は昔のホースマンの感覚を持っているから。それとトップの馬の感覚って、口で言えないものもある。だからその背中を知る正義が調教師になれば、もっと成功するんじゃないかと思っていた」
蛯「小島先生が引退したり、(エルコンドルパサーを管理した)二ノ宮(敬宇)先生が勇退したり、ほかにも調教師をやればという声をいただいたりと、いろいろなタイミングが合致した感じですね。今も乗り役をやれるけど、できなくてやめるんじゃなくて、エネルギーがあるうちにそこに注がないと。騎手ができなくなったから調教師をやる、というような簡単な仕事ではないと思っているので」
―お互いの印象を教えてください。
太「ひとつ自慢できることがあって。正義はデビューした頃から見ていたけど、道中はスラッと乗るわけよ。馬に負担をかけないで、きれいに乗っていた。ただ直線に入って追い出した時にすごく迫力があって、『おっ』と思った。久々にきたなと。武豊と同期で当時は10分の1も注目されてなかったけど、この騎手は絶対トップになると。結構、見る目あるんだよ(笑い)」
蛯「騎手時代の先生のイメージはピンク。僕がジョッキーになる前から『サクラ(軍団)と言えば』という感じで、同じ騎手としてデビューした当初もサクラの馬はオープン馬ばかり。ずっと主戦をやっていて、すごいことだと思っていました」
太「俺はずっと評価していたけど、現役の時はヨイショはしなかった。同じ騎手としてライバルという意識があったから。自分よりうまいと認めるようなもの。乗っている限り、騎手をやめるまで絶対に負けたくなかった。嫌らしい性格してるよな(笑い)」
蛯「勝負師ですよね(笑い)」
太「でも本人には言わなかったけど、周りにはあの騎手はすごいぞと言っていたんだよ。気分が良かったのは、俺が騎手をやめて正義に任せたサクラキャンドルが勝った時(96年の府中牝馬S)、谷岡牧場の谷岡さんが『太さんに似ていて、蛯名さんかっこいい』って言ったんだ。太さんに似ていてと言われて、本当にうれしかった。それで腹の中でうちの厩舎の主戦でいくと決めた」
―お二人のコンビの代名詞と言えば、G1・3勝のマンハッタンカフェです。
蛯「デビューした時からクラシックを勝てる馬だと思っていました。ただ、おとなしそうに見えるけど、精神的にすごくナーバス。牧場から美浦に戻ってくるだけで20キロ減っちゃう。でも、絶対に良くなるから(3歳の)春はあきらめようと」
太「夏場になって本当にそういう馬になってきた。デカくてだらしなかった馬が、札幌の短い直線で差し切った。これはいけるぜ、と思ったよ」
蛯「今でも覚えているのが、菊花賞の前の週に父が亡くなったんですけど、レース当日の馬場に出て行く時『大丈夫、親父がついているから』と(小島氏が)声をかけてくれて。本当にあの言葉はありがたかったですね。頑張れよとか、そういうのとは違ってスッと入ってきたし、自信みたいなものに変わりました。もちろん絶対に菊花賞を勝てると思って臨んでいたけど、すごく楽に乗れました」
太「似すぎていてね。実は俺も経験していたんだよ。自分の親父が死んだ時、火曜日に葬式をして水曜日には追い切りに乗って。それでその週に勝ったことがあった。競馬はメンタルもすごく大事だからね」
蛯「マンハッタンカフェは長いところだけの馬じゃなかった。そこしか走らなかっただけで。普通に秋の状態で使えていたら、当然、ダービーも勝負になっていたと思います」
太「皐月賞だっていけたよ」
蛯「あの馬が一番良かったのは有馬記念(01年=1着)。やってもやっても減らなくなって、どんどん膨らんでいった。逆に良くなりすぎて限界を超えてしまうところがありましたね」
太「凱旋門賞(02年=13着)はスタートが絶好で折り合いから何からクリアして、よし正義!って思ったんだけどな。3~4コーナーの下りに入ったときに(脚に)きたんだろう。死ぬまで言い続けるけど、故障してなかったら絶対勝ってた。怖くなるくらいの出来だったからね。でも夢をかけられたから」
蛯「なかなかいけないですよ。チャレンジする馬を管理するということだけでも、すごいことだと思います」
太「ダービーは勝てなかったけど(25回騎乗して2着2回)、いい騎手人生だったんじゃないかな。リーディングも取ったし、凱旋門で2着が2回(99年エルコンドルパサー、10年ナカヤマフェスタ)もあるんだから。アパパネとか、たくさんの良い馬にも巡り合えて」
蛯「いろんな意味で、大きなレースに何回も乗せてもらって本当にありがたいと思っています」
太「今どき珍しい義理堅い人間。それがなかったらマンハッタンカフェには乗せていなかった。欠点も長所も知っているけど、調教師は絶対できると思う。騎手のすべてをやり抜いた本当のジョッキーだから。本当の本物のホースマンだから。そういう人が調教師をやるべき」
蛯「なんで調教師をやろうと思ったのかな?と考えた時、今までは自分のために騎手の仕事をしてきた。でも、調教師になると馬主さん、ジョッキー、厩舎スタッフだったりいろんな人たちとの仕事に変わる。もちろん自分が乗り役で勝てなかったダービー、凱旋門賞も含めて大きいレースを勝てればいいなと思うけど、今度はお世話になった人たちを自分がそういう舞台に連れて行きたい。『凱旋門賞に一緒に行きましょう』と、そういうふうになればいいなと。たくさん与えてもらったので、今度は恩返しというか、与えられる側になれたらいいなと思っています」
―最後にファンにメッセージを。
蛯「調教師試験に挑戦した3年間、自分の中では、ジョッキー蛯名正義を応援してくれていたファンの期待を裏切ったという葛藤がありました。両立できるんじゃないかと思っていたけど、実際にやってみたら、とてもじゃないけど間に合わなかった。勉強もしないといけない、競馬のことも考えないといけない。年齢も年齢だし、やっぱり不器用だから一つのことしかできなかった。ファンにはものすごく申し訳なかったなという思いはありますけど、今度は調教師の蛯名正義も頑張るので、また応援してもらえたらうれしいですね」
◆サクラ軍団 競走馬に「サクラ」の冠名を用い、ピンク色がベースの勝負服で重賞勝ち馬を多数輩出。一時代を築いた。小島太を鞍上に、サクラユタカオー、サクラチヨノオー、サクラバクシンオーなど数多くのG1馬も誕生した。
◆マンハッタンカフェの現役時代 01年1月のデビュー戦こそ3着に敗れたが、折り返しの新馬戦を快勝。報知杯弥生賞4着、続く500万特別も11着と春は不本意な成績に終わったが、立て直した夏の札幌で500万、1000万を連勝。秋は初戦のセントライト記念こそ4着にとどまったが、菊花賞を6番人気で制し、続く有馬記念で連勝した。翌02年は天皇賞・春を制してG1・3勝目。秋は凱旋門賞に挑戦したが、レース後に屈けん炎が判明し、現役を引退した。
◆蛯名 正義(えびな・まさよし)1969年3月19日、北海道生まれ。51歳。87年3月に美浦・矢野進厩舎から騎手デビュー。JRA通算2539勝(2万1171戦)は武豊、岡部幸雄、横山典弘に次ぐ歴代4位。重賞は歴代6位の129勝。うちG1は96年に天皇賞・秋(バブルガムフェロー)で初制覇し、マンハッタンカフェ(01年菊花賞、有馬記念、02年天皇賞・春)、アパパネ(09年阪神JF、10年桜花賞、オークス、秋華賞、11年ヴィクトリアマイル)など26勝。