【日本ダービー回顧録】競馬新時代の到来を告げる19万人超の「ナカノコール」

1990年の日本ダービーは中野栄治騎手が騎乗したアイネスフウジン(手前)が逃げ切りV
1990年の日本ダービーは中野栄治騎手が騎乗したアイネスフウジン(手前)が逃げ切りV

 ◆第57回日本ダービー・G1(1990年5月27日、東京競馬場、芝2400メートル、良)

優勝 アイネスフウジン(中野栄治騎手、美浦・加藤修甫厩舎)

2着 メジロライアン(横山典弘騎手、美浦・奥平真治厩舎)

3着 ホワイトストーン(田面木博公騎手、高松邦男厩舎)

 初めてのダービー体験から30年になる。株価下落を目の当たりにしながら、まだバブルの余韻を引きずっていた1990年。大相撲は若貴の活躍に沸き上がり、コンビニのスイーツコーナーには「ティラミス」が並んでいた。

 日本中央競馬会からJRAに変わって4年。空前の競馬ブームがやってきた。「好奇心100%の競馬です」というキャッチコピーで、柳葉敏郎、賀来千香子を年間CMキャラクターに起用。こののちに大ヒットする名曲「会いたい」をリリースした沢田知可子の「Live on the turf」の軽快メロディーがマッチした。まさに、押せ押せ。その中心にはデビュー4年目、21歳の武豊がいた。

 ヤングジョッキーが主役だった。皐月賞を制したハクタイセイは、手綱を執った南井克巳(現調教師)がロングアーチに騎乗するため、日本ダービーでは武豊が騎乗。1971年にヒカルイマイで勝った田島良保の23歳7か月を更新する、JRAのダービー史上最年少制覇がかかっていた。1番人気は5年目の関東のホープ横山典弘が騎乗するメジロライアンで、2番人気は武豊のハクタイセイ。その陰でキャリア20年、37歳のベテランが、静かにチャンスをうかがっていた。

 皐月賞2着馬アイネスフウジンの中野栄治(現調教師)だった。競馬記者2年目で、初めての美浦トレセンがダービーの取材。「アイネスフウジンの1分間の心拍数は22」それが当時の最強馬オグリキャップをしのぐ数字と聞いただけで、迷わず本命を決めた。

 最終追い切りの直後だった。「勝手に持っていきやがったな…」表情を崩しながら、小島太(現本紙評論家)がステッキを探していた。中野が小島のステッキで調教をつけていたことがわかった。2人のやりとりを見ている記者は、ほかにいなかった。「ダービー2勝ジョッキーの運を借りたのか―」独りよがりの原稿から3日後、アイネスフウジンは2分25秒3のダービーレコードで逃げ切った。スタンドには、今後も破られることのないであろう入場人員レコード、19万6517人が待ち受けていた。期せずして起こった「ナカノコール」は、競馬新時代の到来を告げる号砲だった。

 ゴンドラにいれば、鳥肌が立つような瞬間だったことだろう。大慌てで記者席から地下・検量室へ降りたため、見ても、聞いてもいないのだ。晴れがましい中野の表情も見ることもなく、「今年も勝てなかった関西馬」というテーマで、ひたすら敗者コメントを拾い集めた。平成に入って関西馬の快進撃が始まっていたが、1982年のバンブーアトラスを最後にダービーだけは勝てず、これで8連敗。翌年のトウカイテイオーでようやく止まった。

 スマホもネットもない時代だったが、売り上げは前年から一気に105億円増(約397億円)。初めてのダービー取材は苦い思い出だが、坂の上の雲を目指していた熱狂を肌で感じることができたのは幸運である。今年は無観客―。最初で最後であってほしいと願うばかりである。=敬称略=(編集委員・吉田 哲也)

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