【1983年・第50回日本ダービー】松山康久元調教師「ミスターシービーは恩人でありヒーロー」 ~道は、ひとつじゃない。スポーツ新聞・夕刊紙による9紙合同特別企画~

1983年の日本ダービーを制した吉永正人騎手(中)と千明大作オーナー(右)
1983年の日本ダービーを制した吉永正人騎手(中)と千明大作オーナー(右)

 第91回日本ダービー・GⅠは26日、東京競馬場の芝2400㍍を、3歳の優駿18頭が最高栄誉をかけて争う。これまでに90頭が「ダービー馬」の称号を手に入れてきたが、第50回の゛記念ダービー〟を制したのが、ミスターシービー。豪快な追い込みを武器に、日本中のファンを魅了した。100回へ向けてカウントダウンとなった今、超絶人気ホースの当時を懐かしむ。

 日本中の競馬ファンが、その豪快なレースぶりに魅せられていた。後方から、他馬をまとめてのみ込むようにまくり、最後に突き放す。ミスターシービーの走りは、常識を覆すほどの派手さだった。

 1983年、第50回の記念すべき日本ダービー。ミスターシービーは、ひいらぎ賞こそ差し脚が不完全で初めて2着に敗れたが、共同通信杯4歳S、報知杯弥生賞、皐月賞と完全に差す競馬をマスター。単勝1・9倍の圧倒的1番人気に支持されていた。

 ゲートが開く。だが、スタートがひと息。21頭立ての後方2、3番手から運んだ。勝つためには1コーナーで10番手以内と言われる「ダービーポジション」が絶対と言われたが、それには、はるか及ばない。それでも少しずつ位置を上げて3コーナー過ぎからエンジンがかかると、一頭だけ次元の違う走り。最後の直線に入って先頭に立つと、力強く伸びて50代ダービー馬の称号が待ち受けるゴールを先頭で駆け抜けた。

 当時、同馬を管理していた松山康久元調教師は、こう振り返る。「ダービーは一番いい出来でした。(ダートでオープンの)アンドレアモンや父(松山吉三郎元調教師)のところ(厩舎)に、モンテファスト(84年天皇賞・春制覇)がいましたけど、どの馬と稽古しても互角以上に動いていました。プレッシャーは多少ありましたけど、申し分ない出来でしたから」。夢でもあったダービー制覇の感動が今でもよみがえってきているようだ。

運と縁

 運と縁…。オーナーの千明(ちぎら)牧場と吉三郎さんは古い付き合いだったが、未来の3冠馬は康久厩舎に預託された。さらに、82年に父・吉三郎さんが定年制度に伴い2馬房を削減された。そのため、同厩舎で厩務員を務めていた佐藤忠雄さんが康久厩舎に異動。佐藤さんは偶然にもミスターシービーの母であるシービークインを担当していた縁で、産駒を担当することになったのだ。「とんでもない星が私の上に落ちてきたようなもの。運でしかないです。佐藤さんが来たのも偶然にせよ、縁でしかないですね」

 秋には菊花賞も勝ち、シンザン以来、19年ぶり史上3頭目の3冠に輝いた。夏負けをするなど苦労をしての達成。同じ千明牧場生産で菊花賞で敗れて3冠を逸した近親にあたるメイズイの雪辱を20年後に果たしたというのも因縁めいている。「ミスターシービーは恩人でありヒーロー。馬の仕事をする上でバイブルであり教科書でした。思い入れは今でもありますね」。ミスターシービーの雄姿は今でも多くの人の心に残っている。

元調教助手・新畑繁さん「まさか3冠馬になるとは」

 ミスターシービーは私の長年抱いていた願いをかなえてくれた馬です。以前は関西の厩舎に所属していて、シンザンを横目で見ながら調教をしていました。「こういう馬を調教したいなぁ」と思っていたんです。ミスターシービーの調教を任された時、まさか3冠になるとは思ってはいませんでしたが、「できる限りの調教をしてみよう」と取り組みました。そうしたら…。

 初めて厩舎に来た時、乗ってみると体が柔らかい。角馬場で乗ると、身のこなしが良く、いい駆け脚をしていました。キャンターではいいフットワークだし、ハミをかけるとグンと伸びる。全身がバネだと思いました。モンテプリンス(82年天皇賞・春制覇)など名馬の調教もつけていましたけど、こういう馬にはまたがったことがなかったですね。3冠はともかく、走るだろうなと思っていました。

 しかも、レースを使う度に力強くなって、頼もしかったですね。皐月賞を勝ってからダービーに向かう時でも不安はなかった。具合は良かったですね。でも、私が直前にけがをしてしまって、口取りには出られなかったんです。それが残念でしたね(苦笑)。

千明大作オーナー・3代にわたりダービー制覇

 ミスターシービーの生産者でオーナーだった千明大作さん(91)は祖父・賢治さん(1938年スゲヌマ)、父・康さん(63年メイズイ)に続いて、3代にわたってのダービー制覇となった。「運が良かったです。今日は勝てると思ったらダメですし、ガチガチに(硬く)はならなかったですよ」と大作さん。戦後、再開した54年に20頭の繁殖牝馬の中から、抽選で手にしたチルウインドを祖にメイズイを経てミスターシービーが誕生。もし、このときチルウインドが来なかったら、ミスターシービーも存在しなかった。「(私は)欠点が目に付く方だけど、ミスターシービーには、それがなかったですね」と当時を懐かしそうに振り返っていた。

 ◆ミスターシービー 1980年4月7日、北海道浦河町の千明牧場で生まれる。父トウショウボーイ、母シービークインの黒鹿毛。美浦・松山康久厩舎に所属。82年11月に東京・芝1600メートルの新馬戦でデビューし、5戦4勝で迎えた83年4月の皐月賞でGⅠ級初制覇。同年11月の菊花賞で3冠達成。通算【8313】。全て吉永正人騎手が騎乗。GⅠ勝利は84年天皇賞・秋。2000年12月15日、21歳で死没。

ミスターシービーの思い出を語った松山康久元調教師(左)と新畑繁元調教助手
ミスターシービーの思い出を語った松山康久元調教師(左)と新畑繁元調教助手
20頭抜きの豪快な競馬で日本ダービーを制したミスターシービー(右)
20頭抜きの豪快な競馬で日本ダービーを制したミスターシービー(右)

最新記事

さらに表示
ニュース検索
馬トク SNSアカウント
  • X (旧Twitter)
  • facebookページ
  • Instagram
  • LINE公式アカウント
  • Youtubeチャンネル