1991年の有馬記念。単勝137・9倍の低評価を覆して、真っ先にゴールへ飛び込んだのはダイユウサクだった。このオッズは、現在も有馬記念における単勝払い戻しの最高記録。「これはびっくり、ダイユウサク!」という実況のフレーズとともに、語り継がれている。内藤繁春厩舎でダイユウサクを担当していた平田修調教師=栗東=が、激走の裏側を明かした。
そもそも、平田師からすれば有馬記念への出走が“びっくり”だった。ダイユウサクは有馬記念の2週前に、阪神競馬場新装記念という、阪神の芝マイルで行われたオープン特別を勝っている。このとき平田師は「G1で勝ち負けしようと思ったら、マイルか1200メートルちゃうか」と、ひそかにスプリンターズSを狙っていた。
当時スプリンターズSは有馬記念の1週前に行われており、出走するなら連闘になる。「ここを使われたら、もうスプリンターズSは無理やな」と気落ちした平田師に対し、内藤調教師(当時)は「有馬記念行くぞ」と衝撃のプランを告げた。
経験のない距離だった上に、ライバルも強力。最有力は同年の天皇賞・春を制したメジロマックイーンだった。しかし、その頃のマックイーンは流れが悪く、天皇賞・秋で1着入線から18着に降着した後、ジャパンCも4着に敗れていた。「内藤先生が『相手、何がいんねん』って言いはってん。『メジロマックイーンはないぞ』って。なんちゅう強気なおっさんやと思ったわ」と、衝撃ぶりを明かす。
迎えた本番。ダイユウサクは道中は後方よりだったが、4コーナーから勢いを増して進出してくる。「あ、これ5着あるんちゃう?」。その直後。「ほんならガンガン伸びてくる。どうなってんのこれ!? って(笑い)」。残り約100メートルで、抜け出していたプレクラスニーをとらえ、メジロマックイーンの猛追も1馬身1/4差でしのいだ。「『これはびっくり、ダイユウサク』って実況の人が言ってたけど、一番びっくりしたのは俺やと思う!」と笑った。
ダイユウサクは1988年10月のデビュー戦、2戦目とタイムオーバーだったのは有名な話。なぜ、有馬記念を勝つまで成長したのか? 転機の一つが、89年4月の新潟での未勝利勝ちだった。
3戦目のために再入厩したときから、平田師が担当。乗り味は良く、格上の馬と併せても引けを取らない。なぜ能力を発揮できないのか? ともに過ごすうち、原因はソエ(骨膜炎)だと分かった。「休ませたったら治るんちゃう」。5戦目で新潟に滞在した際、平田師は内藤調教師に無断でダイユウサクの調教メニューを軽くした。思惑通り、10番人気を覆して初勝利。この決断が、馬生を大きく左右したのは言うまでもない。
平田師の調教助手生活で、重賞初勝利、そしてG1初勝利をもたらしてくれたのはダイユウサクだ。「それまであんまり走る馬をやったことがなかった。だから必死やった」。ただ、その熱血ぶりは、プライベートにまで影響を及ぼした。「当時付き合ってた女の子に『馬と私どっち取るの!』って言われて、『ユウサク』って言ったことある。『人間やから一人で生きていけるやろ。でも、あいつは俺がおらなあかんねん!』って」。笑い話だが、平田師がどれだけ真剣だったかが伝わるエピソードだ。
ちなみに、調教師になろうと思ったきっかけもダイユウサクだという。「あれがあんなことするからさ、もしかして俺でも調教師になれたりするんかなって(笑い)」。有馬記念制覇という成功体験が、大きな自信につながった。「必死やったけど、めっちゃ楽しかった」と、生き生きとした表情で当時を振り返る。平田師とダイユウサクが過ごした約3年半は、まさに青春だった。(中央競馬担当・水納 愛美)