拝啓 寺山修司様 日本馬が招待馬をけ散らすことが当たり前の時代がやってきました 没後40年の「風の吹くまゝ」

第1回ジャパンCで優勝したメアジードーツ(左)
第1回ジャパンCで優勝したメアジードーツ(左)
強力な外国勢を相手に吉永正人騎手とモンテプリンスに期待をかけた寺山
強力な外国勢を相手に吉永正人騎手とモンテプリンスに期待をかけた寺山

 26日は世界ランク1位イクイノックスと、3冠牝馬リバティアイランドの世紀の対決が注目される第43回ジャパンC(東京・芝2400メートル)が行われる。没後40年となる詩人で劇作家の寺山修司の復刻コラムは、現在とは隔世の感がある第1回に掲載された「ゆけ! 無冠の帝王」。70~83年のコラム連載時に競馬担当、のちに演劇担当として寺山本人を直接取材した社友で演劇ジャーナリストの大島幸久氏が、当時を振り返った。

81年11月22日付コラム「ゆけ!無冠の帝王」再掲    

 「日曜日には鼠を殺せ」の中で、かつてスペイン市民戦争の兵士だった男が、一人の少年に頼まれて、再び銃をとることになった。

 男には、かつての力がない。しかし、彼はあえて少年のために銃をとってつぶやく。

 「男には生涯に一度、負けるとわかっていても戦わなければならない時がある」と。

 アメリカの馬を迎え撃つ日本のオープン馬が、どれくらい戦えるかは疑問符が多いところだ。普通ならば、ザベリワンやメアジードーツを相手に互角に戦うことは至難である。しかし、アメリカの馬にも死角がないわけではない。騎手は着いたばかりで、馬場に全く慣れていない。しかもシューメーカーが「府中の坂は要注意だ」といっていたことを思い出す。日本の馬にはホームコースの利があるし、アメリカの両馬はともに牝馬。いくらタフだといっても、時差の影響が残っていないとは限らないのである。

 オレはあえて無冠の帝王のモンテプリンスに期待する。四歳時から買い続けてきたモンテプリンスの最後のビッグチャンス。吉永正人の手を振る晴れ姿をみたいのだ。一応、ホウヨウボーイとザベリワンへ〈2〉―〈8〉、〈6〉―〈8〉、〈8〉―〈8〉。それに大穴ならばゴールドスペンサー。この地方上がりの未勝利馬が、アメリカの重賞勝ち馬を破る晴れ姿をみたいので、〈5〉―〈6〉を一点つけ加えて、四点で勝負してみたい。たぶん、勝ちみはないかもしれない。しかし、直線一気に招待馬をけ散らして、ゆけ!モンテプリンス。(詩人)=原文まま=

本紙OB・大島幸久氏が当時の思い出つづる

 今年は寺山修司さんの没後40年となった。競馬と演劇の世界が私との接点で、どちらも懐かしく楽しかったことを覚えている。

 報知新聞社で競馬担当の記者時代、名物コラム「風の吹くまゝ」の原稿を待っていた。まだファクスもない時代、若手の当方は黒電話の前にへばり付いて待機。しかし待てど暮らせど一向に音が鳴らない。締め切り時間が迫っても、いや、とっくに過ぎていた。やがて、「来た!」。わびるあのなまった声、同じく待機した速記記者に吹き込んだ文章。スシ屋の政や万田、桃ちゃんらが劇作の登場人物のように生き生きと描かれ、また、芦毛の逃げ馬ホワイトフォンテン、かみつく癖が個性的なカブトシローなどが好きだった競馬歴を通して書かれたコラムの面白かったこと。原稿は渋谷・並木橋を拠点とした劇団「天井桟敷」の事務所や喫茶店でチラシ広告の裏に書いた時もあったようだ。

 その後、演劇担当に異動した私は劇団に出向き、寺山さんにあいさつ。コラムの到着を待った経験、そして「父が大島輝久です」と言うと驚いたような満面の表情。父は1970年代後半、競馬評論家・赤木駿介さんの後を継いでフジテレビ「競馬中継」の解説者をしており、寺山さんはそのゲストで出演していたのだった。

 当時、東京・平河町の本社裏手にあった町中華「中央亭」の2階の雀荘で激ペンこと白取晋さん【注】らとマージャンの真っ最中。そこへ私を探し当てた記者が寺山さんの急変を知らせに来た。あきれる皆にわびて杉並区内の病院へ向かった。

 亡くなってしばらくして芸能面の小コラムに書いたのが、寺山さんの競馬電話投票の残金が数百円だった裏話。九條今日子夫人が「書いちゃダメでしょ。まったくしょうがないわねえ」と話ながらも喜んでくれたのも思い出の一つだ。

 単独インタビューでは「人力飛行機ソロモン」や「奴婢訓」など難解な実験劇で使う装置を詳しく説明してくれた。寺山さんは優しく、面白く人間味のあるロマンを追う異能の劇詩人であった。

 【注】本紙記者で名物コラム「激ペンです」を80年から亡くなる93年まで執筆。巨人に対して厳しくも温かくファンの気持ちを代弁した健筆で愛された。

今年のメンバーだったらパンサラッサを買う!?

 1981年に第1回が開催されたジャパンCは、日本初の国際G1として世界と渡り合えるような日本馬のレベルアップを目指して創設された。前年の有馬記念の覇者で、前走の天皇賞・秋を制したホウヨウボーイや、寺山修司さんが願いをかけた同2着のモンテプリンスが世界の強豪に挑んだが、結果は米国の6歳牝馬メアジードーツがレコードでV。4着まで外国馬が占めて、日本の競馬関係者やファンが“黒船来航”のような衝撃を受けたのは想像に難くない。

 日本馬が初白星をつかんだのは4年目、10番人気の伏兵・カツラギエースの鮮やかな逃げだった。その後も外国馬と日本馬の名勝負が幾度も繰り広げられてきたが、近年は参戦する外国馬の出走頭数が減り、05年アルカセットを最後に白星から遠ざかっている。

 今回の貴重な逸話を寄稿してくれた大島幸久氏は、寺山さんの訃報が掲載された当時の報知新聞に追悼記事を書いている。そこには「愛し続けた競馬で、倒れるのを覚悟で逃げまくる逃げ馬が好きだった」と記されている。今年のメンバーだったら、世界も沸かせたパンサラッサをひいきにするだろうか。寺山さんが生きていた当時とはジャパンCも隔世の感があるが、競馬が紡ぐドラマを待ち望む気持ちは変わらない。(坂本 達洋)

◆1981年の主な出来事

  第48回日本ダービーは3番人気のカツトップエース(牡、美浦・菊池一雄厩舎)が、大崎昭一騎手とのコンビで皐月賞とあわせて2冠達成。プロ野球は藤田元司監督率いる巨人が4年ぶりのセ・リーグ制覇を果たし、日本ハムを破って8年ぶりの日本一=写真=。大相撲では「角界のプリンス」として人気を誇った元大関・初代貴ノ花が1月の初場所で現役引退。3月に出版された黒柳徹子著「窓ぎわのトットちゃん」が空前のベストセラーに。8月に台湾の航空機が墜落し、作家の向田邦子さん(享年51)ら日本人18人が死亡する事故。

 ◆寺山 修司(てらやま・しゅうじ)1935年12月10日、青森県生まれ。54年に早大教育学部国語国文学科に入学も、ネフローゼにかかり翌年中退。在学中に「チェホフ祭」で第2回短歌研究新人賞を受賞、創作の道に入る。67年に演劇実験室「天井桟敷」を設立。劇作家として活躍し、詩、映画、文学、評論など幅広い分野で才能を発揮した。83年5月4日に肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発して死去。享年47。

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