◆中山大障害・JG1(12月24日、中山競馬場・芝4100メートル、11頭立て=良)
我々が社会においても時たま耳にする言葉に「無事之名馬(ぶじこれめいば)」というものがある。馬主でもあった文豪・菊池寛の言葉と言われており、「能力が多少は劣っていても、ケガなく無事に走り続ける馬は名馬である」という意味とされており、そもそもJG1を9勝という輝かしき偉業を誇るオジュウチョウサンにはふさわしい例えではない。だが、引退レースだった先日の中山大障害は6着に敗れたものの、無事に走りきれたことで「無事之名馬」のフレーズが頭に浮かんだファンも多いのではないだろうか。
そもそも障害馬は故障のリスクが多い。19年の中山大障害を制して、その年のJRA最優秀障害馬に選出されたシングンマイケルは、20年の中山グランドジャンプの最終障害の着地で転倒して不慮の死を遂げた。13年の中山大障害、14年の中山グランドジャンプを制したアポロマーベリックも、15年の中山大障害で故障。予後不良で安楽死の処置が取られた。長らくオジュウチョウサンの主戦を務めてきた石神深一騎手が引退レースの直後、「レース前からずっとケガとか何かあるのだけは嫌だった。無事に引退できなかった馬も多く見てきましたからね。ちゃんとした状態で余生を過ごしてほしいですから」という言葉は偽らざる本音だろう。オジュウ自身も、現役時代に何度か骨折のケガをしており、やはり無事に引退できたことは何よりと言える。
希代のジャンパーを支えた強みは、代名詞である優れた心肺能力をはじめ、主に体幹の強さ、筋肉の柔らかさなどがあった。一方のウィークポイントとしては、デビュー当初に結果を出せなかった要因とされる気性の激しさ、難しさもあるが、実は体質が強くなかったことはあまり知られていないのではないか。管理した和田正一郎調教師が「若い頃からここまで体は強い方ではなく、明けて4歳の頃は骨瘤(りゅう)が出たりしていたくらいです。調教の前後はもちろん、レースを走った後はもっと大変で、背腰の筋肉は痛みやすかった。心肺はすごいですけど、ケアには時間をかけました」と振り返るように、ダメージのたまりやすいタイプだったという。思いおこせば体調が整わないため予定を回避したレースもいくつかあったが、どれもオジュウチョウサンのことを第一に考えた末の決断。無理してレースに使ってこなかったからこそ、無事に引退式を迎えられたのではと思う。
そのセレモニーで涙を誘ったのは、担当の長沼昭利厩務員が「着順よりも元気に戻ってきてくれたことが一番です。(オジュウチョウサンと)別れたくない…」と声を詰まらせながら語った言葉だ。記者も目頭が熱くなりかけたが、その“沼さん”が11歳まで走り続けられたオジュウに、いかに心を砕いてきたかも忘れてはいけない。「土曜にレースに走ると、月曜、火曜あたりに脚がパンパンになって、いつも果たして次にいけるのかな…というのは正直あった。年をとってからはダメージが残る時間が長くなってきたから、自分の子供と一緒で、馬の普段のしぐさ、いつもと違うところがないか、注意深く観察してきた」と、事故のないように寄り添い続けてきた。
世に「名馬」と言われるゆえんには、その馬自身の優れた能力がある。しかしオジュウチョウサンの11歳にも及ぶ長い現役生活を思う時、和田正一郎調教師、主戦の石神深一騎手、そして担当の長沼厩務員をはじめとした厩舎スタッフ一丸の支えがあったからこそ、数々の記録を打ち立て、そして「無事」にラストランを終えられたのだと思う。(坂本 達洋)