武豊騎手「仕事場で顔を見れなくなるのはさみしい」3月4日定年引退の兄弟子・河内洋調教師に惜別

ラスト重賞で弟弟子の武豊とのコンビでチューリップ賞に挑む河内師(カメラ・高橋 由二)
ラスト重賞で弟弟子の武豊とのコンビでチューリップ賞に挑む河内師(カメラ・高橋 由二)
河内師との思い出を語る武豊
河内師との思い出を語る武豊
河内師が騎手時代にアグネスフライト(手前)で初制覇を成し遂げた00年の日本ダービー(奥は武豊騎乗のエアシャカール)
河内師が騎手時代にアグネスフライト(手前)で初制覇を成し遂げた00年の日本ダービー(奥は武豊騎乗のエアシャカール)

 今週末の開催を最後に、東西8人の調教師が引退する。なかでも騎手としてJRA通算2111勝、半世紀に及ぶホースマン人生を歩んできた河内洋調教師(70)=栗東=へ、「弟弟子」の武豊騎手(55)=栗東=が惜別と思い出を明かした。桜花賞トライアル(3着まで優先出走権)の第32回チューリップ賞・G2(3月2日、阪神)はウォーターガーベラでコンビを組む。

 年月を重ねても、立場が変わってもずっと“兄”だ。武豊と今週末で定年引退する河内調教師は、切っても切れない関係。幼少期は、近所に住む14歳上の「洋兄ちゃん」で、87年に騎手になってからは武田作十郎厩舎の兄弟子となった。「(思い出は)子供のときからあるからね」と、しみじみ語る。

 武豊少年の部屋には、4人の騎手のポスターがあった。その一枚が「若武者 河内洋」。りりしい立ち姿を見つめながら、騎手への夢をふくらませた。一方で、普段は親近感のある存在。兄弟子の車で出かけることも多かったが、あるとき急にドアを閉められ、自身の指が挟まったという。「後から河内さんが『あんとき、もっとグッといっときゃ良かったわ』って(笑)」と懐かしんだ。

 同門になってからは、一途に尊敬のまなざしを向けた。競馬学校に入る4年前の80年に、既にリーディングを獲得。「もう、めっちゃかっこよかったからね」と、時が戻ったかのように目を輝かせた。デビュー前には、現在のバレットのような業務を担当。馬によってあぶみの長さを変えるなど、こだわりを知った。うるさく注意はせず、“見て学べ”という職人気質。「あんなリーディングジョッキーがすごく身近にいたことは、ラッキーというか、恵まれてた」。厳しく仕事に打ち込む姿を、肌で感じた。

 2人の名勝負といえば、00年の日本ダービー。3連覇がかかる武豊のエアシャカールが抜け出したが、ゴール前でそれを鼻差差し切ったのが、河内のアグネスフライトだった。「悔しかったけど、あれ勝ってたら嫌われてたやろうな(笑)」。河内師は騎手として17度目の挑戦でダービー初V。「お互い、いい勝負した」と、すがすがしい表情で振り返る。

 くしくも、自身のダービー初V(98年スペシャルウィーク)の2着も河内(ボールドエンペラー)。「やっぱり、調教師というよりジョッキーのイメージが強いな」と語るのは、何度も大舞台でしのぎを削ったからだろう。

 河内厩舎のラストデーには、チューリップ賞でウォーターガーベラとコンビを組む。「お世話になったと言ったら、ありきたりすぎるけど…。この業界で、仕事場で顔を見れなくなるのはさみしい」。このタッグで重賞を勝てば、11年シリウスS(ヤマニンキングリー)以来2度目。最後のタイトルを、弟からのはなむけにする。(水納 愛美)

 ◆河内 洋(かわち・ひろし)1955年2月22日、大阪府生まれ。70歳。74年に栗東・武田作十郎厩舎所属で騎手デビューし、03年の引退まで全国リーディングに3度輝くなどJRA通算2111勝。G1級22勝を含む重賞は134勝。01年アグネスタキオンで皐月賞を勝ち、クラシック完全制覇。牝馬限定重賞は27勝を挙げ「牝馬の河内」とも呼ばれた。05年3月に厩舎を開業。重賞7勝。

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